木曜島と藤井富太郎

ダイバー列伝

木曜島と藤井富太郎

木曜島とは?

オーストラリア北東部、ヨーク岬の突端から35キロほど離れた場所にある。

1789年にバウンティ号の反乱で追放されたウィリアム・ブライ艦長らが、漂流中に近くの水曜島、金曜島とともに命名したとされる。

 

島の周辺海域は真珠貝の生息地で、これを採取するダイバーたちの基地があった(ボタンの材料として貝殻を採取するのが主目的で、真珠はむしろついでだった)。明治から第二次世界大戦前まで日本人採取者が多数居住しており、潜水病などで命を落とした日本人は約700人にも達するという。司馬遼太郎の作品に彼らを題材にした中編『木曜島の夜会』がある。

 

木曜島の真珠採取は、1869年にバナーという西洋人が本格的に始めたとされる。もともとナマコの漁場を探していたバナーだが、原住民の真珠細工を見てひらめいたという。

 当初、ダイバーは原住民と白人が多かったが、慰霊碑にあるように1878年(明治11年)から日本人が参入すると、あとは日本人の独壇場となった。

 この島に最初に来た日本人は島根県の野波小次郎という漁師だった。その後、数人が渡航し、1883年(明治16年)にイギリスのジョン・ミラーの手引きで37人が団体移民している。

 

藤井富太郎氏

。小さな文字で像の側面に書かれている英文によると、1907年和歌山県で生まれ、1925年、真珠ダイバーとしてこの島に来たとある。そのとき18才。未成年の若者が目指した島は、当時、この真珠採取で大いに潤っていた。

 司馬遼太郎は、この藤井さんに出会って、真珠ダイビングの記録を残している。

しかし1920年代まで好調につぐ好調を続けてきた真珠採取だが、1931年の世界恐慌で、市場は一気に衰退してしまう。多くの日本人もこのとき解雇された。

 そして1941年、太平洋戦争が始まると、オーストラリア政府は敵国人である日本人を全員逮捕してしまう。

 司馬遼太郎はこのときの様子を藤井翁のインタビューとして、次のように書いている。

 

《濠州政府は、(中略)軍艦を派遣してきて、日本人三百人を虜囚にし、小さな汽船の船底に押しこめた。暑いころで、船底に風が来ず、たちまち病人が続出した。濠州政府は木曜島の日本人を人間として見る余裕がなかったのか、豚よりもひどいあつかいだった》(「木曜島の夜会」)

 

 戦後、ほとんどの日本人は強制送還されたが、オーストラリア人と結婚している日本人は木曜島に戻ることができた。藤井翁も島に戻り、再び真珠産業を復活させた。

 

 そして最後まで真珠産業にかかわり、地元では「真珠の父」として広く尊敬を集めた。悲惨な時代の真珠ダイブを知る、最後の人間だった。そして1986年、鬼籍に入る。翌年、地元有志によりトレス海峡を見下ろす高台に、翁の銅像が建てられた。

 現在、島に日本人の活躍を示す遺物は、慰霊碑と日本人墓地とこの銅像くらいしかない。

 

 

うち捨てられた日本人墓地

日本人700名の死者のうち、半数以上が21歳以下の若者だったという。10代後半で島にやってきたとして、彼等はあっという間に死んでいったことになる。

 真珠ダイブは、貧困に悩んでいた日本の多くの若者を引きつけて、そしてその命をいとも簡単に奪っていったのである。

当時(昭和前期)、農村で働いたとして、1年の賃金が15〜20円程度。ところが移民の場合、3年間でおおよそ350円稼げたという。若い日本人が命を懸けてまで潜る理由は、明解だったのだ。

 

死亡の原因の主な原因は潜水病。浅いところにいる貝は限られているので、どうしても深く深く潜って行かざるを得ない。10メートル以上の潜水後に急浮上すると、血液中に窒素の気泡が発生し、足が不随になったり、最悪、死亡してしまう。

 予防はゆっくり段階的に浮上するしかないのだが、当時、減圧の知識はなかったし、仮にあってもそれを守ろうとする人間はいなかった。

 トレス海峡にはダンレイ・デープスと呼ばれる30尋(およそ55メートル)以上の深海があり、ここで多くの人間が死亡したという。

当時 使用されていたヘルメット式潜水器

 

 

参考サイト:オーストラリア「木曜島」へ行く

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