海女の分布と動画
各地の海女の特徴と動画を掲載しています。見たい地方(マカー)をクリックすると特徴と動画が表示されます。
済州島;韓国の海女
(朝鮮語: 해녀:ヘニョ、英語: Haenyo)は、大韓民国(韓国)において、海に潜って貝類や海藻を採集する漁を(専業あるいは兼業で)職業とする女性である。
濟州島の海女博物館の参考サイト:SoratoPapa’s Diary
天草市:湯島の海女
伝統的な素潜り漁は今も日本各地でおこなわれており、熊本県西部の天草諸島もそのひとつ。天草の素潜り漁の歴史は古墳時代にさかのぼるほど古く、その潜水技術は日本一と称されることもある。
壱岐島の海女の『レオタード漁』
壱岐島の東部・八幡(やわた)地区では今も海女が、古(いにしえ)の海人族からの伝統の潜水漁を営んでいる。しかも、レオタードを着て潜るのだという。しかし、なぜ、レオタード─? ここでは資源を確保する為にウエットスーツでの海女漁を禁止しているのですこしでも保温性を良くするためにれレオタードを着用している。
参考サイト:http://www.chie-project.jp/001/no15.html
鐘崎:海に生きる 玄海の海女
鐘崎は古来から海路の要所であり、 先祖は鐘崎海人と呼ばれ、航海術に秀でていた。 特に潜水術に優れた鐘崎海女は「西日本の海女発祥の地」として有名である。 海女の出稼ぎ地であった能登・長門・壱岐・対馬には分村が出来たほどである。
福井県三国町:越前の海女
海女さんが潜る浅海には、ホンダワラ類を中心とした藻場が広がっている。その藻場は、実に多くの海の恵みを私たちに与えてくれる。 春のワカメ、テングサ、モズクに始まり、初夏のウニ、夏から秋にかけてのアワビ・サザエ、冬の岩のり・・・参考サイト:海のゆりかご
鳥羽市:真珠とり海女
かつて、海女は真珠の養殖にとってなくてはならない存在でした。海底に潜ってアコヤ貝を採取し、核入れした貝を再び海底へ。また、赤潮の襲来や台風の時には、貝をいち早く安全な場所に移すなど、海女の活躍がなければ養殖真珠の成功はありえなかったことでしょう。 今は養殖技術が発達し、海女の必要性はなくなりましたが、真珠養殖を支えた海女の活躍を記念するために、真珠島では海女の実演を行っています。昔ながらの白い磯着の海女がみられるのはここ真珠島だけになりました。参考サイト:ミキモト真珠
志摩市:世界最大の海女群団
志摩は昔から「御食(みけ)つ国」として名高いところです。御食つ国とは山海の幸を伊勢神宮に供える地方のことで、志摩では豊かな 海と海女がそれを支えてきました。アマは海人、海士、白水郎とも書き男女とも従事したようです。1996年11月のデータによると志摩全体で海女は2100人をこえます。昔に比べると減少していますが、それでもこれほど多くの海女がいるところは志摩だけです。
参考サイト:三重県漁業協同組合連合会
舳倉島:輪島の海女
アワビ(あわび)の漁場である、舳倉島(へぐらじま)は海女の漁で知られ、輪島市の沖合48キロに位置する小さな島です。のんびり歩いても1時間ほどでひとめぐりすることができます。島の周囲は四季を通じて豊富な海の幸の宝庫となっています。
現在は200名ほどの海女がおり、夏の舳倉島(へぐらじま)・七ツ島(ななつじま)ではウェットスーツと水中眼鏡を身に付けた海女を大勢見かけます。昔はシーズンになると舳倉島(へぐらじま)に移り住んでいましたが、現在は日帰りで通うことが多くなっています。海女の年齢は10代から70代にわたり、親子代々海女、という家も少なくありません。
水深十数メートルもぐる海女の仕事は体力のいる仕事で、「心臓が強い」「息が長い」「視力が良い」ことが海女の必須条件と言われてます。 石川県漁業協同組合 輪島支所
白浜町:南房総白浜海女まつり
海女の大半が農業との兼業で現在50才から60才代約400人が活躍している。5月1日から9月10日の解禁日には海に潜り、サザエ・アワビ・伊勢えび・天草などを採っている。潜水は体力により異なるが、大体1回1分から1分30秒ぐらいである。海女まつり(7月)には、松明を持つ100人の海女の遊泳、花火大会、子供たちのまつりばやし、白浜音頭の総踊りなどが行われている。
久慈市:北限の海女
小袖には「かつぎ」と呼ばれる、磯のウニを素潜りで採る海女の漁法が残されています。水温が低く素潜りで漁をしている地域としては北限とされており「北限の海女」の愛称で親しまれています。7月から9月にかけてこの技を見ることができます。関連サイト:北限の海女
海女の歴史
参考サイト: 鳥羽 海の博物館
海女はいつ頃からいるのでしょうか。
日本列島には、 5 千年くらい前、縄文時代の中頃すでに、海女のいた痕跡が見られます。
3 千年以前と推定される鳥羽市浦村の白浜遺跡からは、大量のアワビ殻とともに鹿角製のアワビオコシが発掘されていますから、きっと海女がいたことでしょう。
また、天平17(745)年の年号が記された木簡が平城宮跡から出土し、志摩国名錐(波な切きり)からアワビが送られた記録があり、海女の存在が推測されます。
万葉集にも女性のあまを歌った作がありますが、文献にあらわれる最も古い志摩国の記録は、延喜式(927年)にあって『志摩の国の海産物をお供えする〝潜女〞は30人である。その潜女には衣服の
代金として伊勢の国の税から稲束を与える』と記されているのが最初です。
また、この地方では伊勢神宮と海女との関係も古くからあり、伊勢へ天照大神をお祀りした倭やまと姫ひめの命みことが、神さまの食べものを探して鳥羽市の国く崎ざきへ来たところオベンという海女に出会い、以後、国崎から神宮へアワビを奉納することになったという言い伝えがあり、その伝統は今も受け継がれています。
画像出典先:海の博物館発行 「目で見る鳥羽・志摩の海女」
海女はどうして「女性」か?
3 つの代表的な説があります。
①女性は男性と比べて、皮下脂肪が多く、寒さに長く耐えられるという説。
②漁業が発達するにしたがって、男は次第に大量な漁獲を求めて、沖の漁場へ出て行くようになり、磯でする潜水漁業は自然に女の海女になったという説。
③朝廷や神宮へ神饌としてアワビを奉る神聖な役割は、とくに女性が果たしていたという説。
あなたはどれだと思いますか?
女性が漁業に従事するのは、日本では珍しいことです。アマの漁法や習慣には、伝統的な海の民の生活を想わせるものも少なくありません。
海女の魔除け
セーマンとドーマン
磯テヌグイや襦袢などに、星形の印(セーマン)と格子状の印(ドーマン)が、貝紫で染めたり黒糸で刺繍されているのを見かけます。
海女たちが危険や怪奇現象から身を守ろうというまじないです。
セーマンとドーマンが並んだもの、上下になったもの、またセーマンだけのものなど、鳥羽や志摩の地区ごとでそのデザインに違いはあるようですが、磯ノミや磯メガネなどにも描かれています。
星形は一筆書きで元の位置にもどり、始めも終わりもないことから魔物の入り込む余地がなく、格子は多くの目で魔物を見張るとも、出入口が分からず悪魔が入りにくいともいわれています。
また、陰陽道と関係するともいわれ、セーマンは安倍晴明、ドーマンは芦屋道満の名に由来するともいわれています。
海中でセーマン・ドーマンを身に着けていない海女に出会ったら……それはトモカズキです。
画像出典先:海の博物館発行「目で見る鳥羽・志摩の海女」
海女の操業方法
海女には、操業の方法に、舟ふな人どと徒かち人どの 2 つがあります。
徒人 かちど
以前は海女が桶を浮きにして作業したので、オケ海女とも呼ばれました。
自力で潜水し浮上するため 5 ~ 8 メ-トルの比較的浅い磯で獲物を探します。
ふつうは陸おかからそれぞれが泳いで漁場へでますが、漁場が遠い地区では船に乗り合って沖へでるところもあります。
画像出典先:海の博物館発行「目で見る鳥羽・志摩の海女」
舟人 ふなど
ふつう夫婦が船で行うので、トトカカ舟ともいわれます。徒人との違いは、水深10~15メ-トルくらいまでの深いところまで潜ります。そのため海女は、重いオモリを持って急速に潜水し、浮上する時には腰に縛った命綱を船上の夫が巻き上げます。以前は長い竿で引き上げた時代もありました。いずれに
しても、夫婦の呼吸がぴったり合わないとできない作業です。夫がよい漁場に船の位置を保つので、徒人と比べて、漁獲量ははるかに多くなります。
画像出典先:海の博物館発行 「目で見る鳥羽・志摩の海女」
海女の道具
●磯メガネ
古く、磯メガネは 2 眼に別れていましたが、いまはすべて 1 眼です。
●ノミ
アワビを石や岩からはがしとる道具で、アワビの大きさや場所によって、オオノミ、コノミを使い分けます。伊勢エビやウニにも兼用できるカギノミが多く使われています。アワビオコシ、イソノミともいいます。
●手袋・ゆび袋
海底での作業中、岩や突き物でけがをしたり、すべったりしないように手袋(軍手)をはめます。
特に指先を使うテングサとりの時は、ゆび袋をはめます。
参考サイト: 鳥羽 海の博物館
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