ジャック・マイヨール

ダイバー列伝

ジャック・マイヨール

ジャック・マイヨール(Jacques Mayol, 1927年4月1日- 2001年12月22日)は、フランスのフリーダイバー。上海生まれ。イタリア・エルバ島没。

ジャックは1927年4月、建築技師を父として上海に生まれた。 フランス人の父母が上海のフランス租界に暮らしていたためである。 彼は兄ピエールとともに上海租界の国際学校に通う。 この学校は男女共学で幼稚園からバイリンガル教育であり、フランス人が多いものの中国人や革命を逃れたロシア人などもいて国際色豊かだったという。

また夏は日本の唐津で過ごし、母に素潜り(閉息潜水)の手ほどきをうけた。 39年、戦争のため一家はフランスのマルセイユに移り住む。 ジャックはそこでも素潜りの技能をみがく。 やがてバカロレアをとったが父の希望する建築関係には進む意志がなく、48年に兄と共に北欧に出かけ北極旅行を試みた後、北欧で知り合ったデンマーク女性と結婚して女児をもうける。 兄と共に50年代初めにカナダに移住、やがて妻と娘を呼び寄せ、それまでは事実婚 だった関係に終止符を打ち52年に正式に結婚し男児も生まれる。 しばらくは農園主としての暮らしを楽しんだが、生来の冒険好きの気質がそれに満足できるはずもなく、57年にあるきっかけから米国フロリダの新聞記者に転職し妻子と共に再 び移住。

その後マイアミ水族館のイルカ調教師になり、ここでクラウンという雌イルカと「運命的な邂逅」をして「ホモ・デルフィヌス(イルカ人)」という概念を考え出すに至る。 59年、ケイコス諸島に転居し、その頃から潜水に打ち込むようになる。 61年、ケイコス諸島からカリフォルニアに移り大学で映画の勉強を始める。 63年に妻と離婚。ここでも潜水は続けていたが、 66年にエンゾ・マイオルカの持つ記録を破る60m35を出したのを機に何度も世界記録を更新するようになる。 そしてこの頃から日本やイタリア、さらにはインドやポリネシアにも足を伸ばすようになる。 潜水記録は当時の学者が不可能だと予測した100mを超えるところまで伸びた。

 70年代初め、ジャックは若く美しいドイツ女性ゲルダを恋人にして暮らしていたが、ゲルダは乱射事件に巻き込まれて死亡した。 このショックを彼は終生引きずったと兄は述べている。 78年、51歳のジャックはアドリア海沿岸の水族館で当時17歳の美少女アンジェリーナ・バンディーニと出会い一目惚れする。 イルカと戯れている彼女を見て、「イルカ人」の女性版第一号にしようともくろんだのだ。 しかし年齢差が大きいこともあって二人の関係は恋愛か師弟か微妙なところがあり、少なくともアンジェリーナは次第に師弟関係として受け止めるようになっていったようである。 80年代半ばに彼女は別の男性と親しくなったが、これがジャックにショックを与え自殺の原因の一つになったのではないかと兄は推測している。 88年、映画『グラン・ブルー』の公開によりジャックの知名度が飛躍的に高まったことはすでに述べた。

 世界的な有名人として多忙な毎日を送りながらも、他方で大きな企画が挫折するなどの体験もあり、そんな状態が続いた後、2001年12月23日、ジャック・マイヨールは首吊り自殺により世を去った。 享年74歳。

大の親日家であり、フリーダイビングにヨーガや禅を取り入れていた。千葉県館山市坂田に別荘を設けている。1995年にはTBSテレビのドキュメンタリー番組「いのちの響」に出演したことがある。1997年の秋には27HOUR SPECIAL CHALLENGE 97内で放送された「イルカが海に帰る日 ~ユキよ、自由の海を泳げ~」のスペシャルゲストを担当した。

 

映画『グラン・ブルー 完全版 -デジタル・レストア・バージョン-』予告編

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1989年マルセイユ出身の女性編集者ジャンヌ・ラフィットと結婚し、本をいくつか出版する(そのひとつが『イルカと海に帰る日』である)。

 

 

伝説のダイバー ジャック・マイヨール LEGEND DIVER Jacques Mayol

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参考文献:『ジャック・マイヨール、イルカと海へ還る』

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